ナイロールの眼鏡をかけた

知的な印象の男性は、

「これ美味しいね、すごく好み」

ザクロ色がかった深いルビー色をグラスの中でまわしながら、余韻に酔いしれている。

ナイロールとはレンズの上にだけフレームのあるタイプのこと。「これ、僕も好きです」と、グラスに注いだボトルをラベルが見えるようカウンターにそっと置く。

年季の入った天然の一枚板。広く、八メートルはあり、一般的なレストランとは異なり、カウンターがメインだ。

男性がお店に通い始め、一年以上だろうか。様々なタイプのワインをお任せで注文する。その中で一番好みだったワインが、

【ガッティナーラ トラヴァリーニ】

【ネッビオーロ】百パーセントでつくられるワイン。北イタリア、ピエモンテ州の一番左端のガッティナーラ地区。

ピエモンテで有名なワインとしてバローロとバルバレスコがあるが、これらも同じ【ネッビオーロ】からつくられる。

これまで提供してきたワインの統計では、女性的なニュアンスのワインが好きみたいだ。

バラの繊細な香りや、胡椒を思わせるスパイシーな香り、柔らかく、絹のようなタンニンとストラクチャー。酸がしっかりあるのに、ここまで心地よくエレガントに飲めるワインはそう多くない。

丁度一年前、十月に男性はこのワインが好きで、現地のワイナリーにまで行ってしまったのだ。後日、大量のワインを買い付けてきた。本当に気に入っているんだろう。

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「買ってきたワイン、今度一緒に飲もうよ」

一度、顔だけ出してくれた。

イタリアから帰国後、しばらく男性の来店はなく、久々に十一月の下旬に来店。深夜二十四時頃、カウンターで一人、赤のグラスワインと前菜を召し上がっていた。その日は、仕事が余程忙しいのか、心身共に憔悴しきっている。

「大丈夫ですか?」

「ちょっと忙しいけど、大丈夫だよ」

この人が仕事で愚痴や弱音を吐いたことは一度もない。

いつもお店に、シェフがつくる料理とお任せワインを楽しみに、嬉しそうに飲んで、食べていた。

「それじゃ、またね」

お店の入り口までお見送り

これが男性の最後の言葉となった。

突然ぱったりとお見えにならなくなり、連絡もつかず、仕事が忙しいんだろうなと、その程度に思っていた。

そして、2017年、1月5日

確か年明け営業初日だったと思う。

その日、

男性の突然の訃報を知ることになった。

数ヶ月後

「予約なしでも大丈夫ですか?」

三名様、御来店

テーブル席に案内すると

「実は…」

ご親族の方々だった

その日は男性がよく食べていたものと、お気に入りだったガッティナーラをボトルで注文。あの子はこういうものを食べて、飲んで、こんなことを感じていたんだ。終始、 団欒していたが、泣いているようにしか見えなかった。

ウェイターからは男性の人柄や、食事やワインの好みを説明、それ以外の言葉は何一つ出てこない。

何も言えず、無力感しかなかった。





常連のお客様が次の日また来てくれるとは限りません。【飲食店とお客様】この関係を対等に良く保てるよう、誠意を持って一日望んでいます。

予想もしないことが起きる連続で、一日振り返ると後悔することが多く、

あの時、こうしていればよかった。

あの時、こういう言い方だったら。

ショッキングな出来事も頻繁にあります。毎日その繰り返しです。たぶんこれからもずっとそうです。

それと同じように、扱ってきたワインにも一本ずつそれぞれの思い出と、記憶が積み重なっていきます。

ここまで書いてきて何を言いたいのか、自分でも未だ解決できていません。お店に来てくれた人にソムリエとして何ができるのか、できたのか。所詮、人一人にそれほど多くのことはできないと思っています。

なんらかの理由で足が遠のいても、その人のことを考え続けられるのか。この話の出来事がきっかけで、自分が信じてきた【接客】が崩れ落ちました。

当時は不謹慎だと思い、何も記録することはせず、記憶として留めていましが、それでも人は気付くと時間が経つにつれ簡単に物事を忘れていきます。

思い出すきっかけがあり、記憶を辿りそのまま勢いで殴り書きました。


初心を忘れず、

これからもっと精進します。